小説「あの子のシャーペン」試し読み

プロローグ

「今日は俺がおごってやるよ」

野口さんはそう言って、同僚と一緒にロッカールームを出ていった。

僕はショッピングモールで清掃のバイトをしている。野口さんはそこの先輩で、バイトが終わるといつも男の同僚を食事に誘う。

しかし、僕だけは一度も誘われたことがない。きっと、僕と食事してもつまらないと思われているのだ。僕は冗談を言えないし、笑うことができない人間だ。それどころか、常にテンションが低い。そのせいで、みんな僕には近づこうとしない。

でも、以前の僕はそうではなかった。物心ついた頃から真面目なタイプではあったが、それでも仲の良い友人と冗談を言って笑い合う人間だった。

しかし、ある出来事をきっかけに僕の心は金庫扉のように分厚い扉で閉じられてしまい、冗談を言うことも笑うこともできなくなった。

人生というのは、最低限の幸せを感じられるかどうかが重要だと思う。どんな人生を送っていたって、嫌なことや悲しいことは起きる。問題は、それをカバーする幸せがあるかないか。

僕が最低限の幸せを感じられる日は、再びやってくるのだろうか。

スマホ

初夏の午前十時。バイトを終えた僕は、名も知らぬ公園に向かう。立派な公園ではなく、ベンチが一つとブランコが二つあるだけの小さな公園だ。

公園ですることは大したことではなく、ベンチに座って缶コーヒーを飲むだけ。でもあの公園でそうしていると、落ち着く。家とは反対方向であるにもかかわらずそこまで行くのは、それが理由だ。

公園が見えてきた。十分の一くらいの確率で人がいるときもあるが、今日はいない。片手に缶コーヒーを持って公園に足を踏み入れた僕は、真っ先にベンチへ向かった。

すると、ベンチの上に何かが置かれているのに気づいた。大きくはない、おそらく手くらいのサイズだ。

僕は、何か、に視線を送りながら歩みを進める。そしてベンチの前まで行くと、何かの正体がスマホであることを確認した。スマホケースには、パンダのキーホルダーがついている。

周りを見渡すが、人は見当たらない。こうなると警察に届けるしかないか。そう思いながら、僕はスマホを手に取る。すると、スマホに電話がかかってきた。

もしかしたらスマホの持ち主がかけてきたのかもしれないが、他人のスマホだということを考えると、出ずに警察に届けた方が良いだろう。僕はそう思ったが、気づいたときには電話に出ていた。

「……あの」

スマホから発せられたのは、女性の声だ。

「あっ、はい」

「あの、そのスマホの持ち主なんですけど」

「ああ、そうですか」

「拾ってくださってありがとうございます」

「いえ」

「今から取りにいきたいんですけど、どこにいますか?」

「公園でスマホを拾って、今もそこにいます」

「やっぱり公園でしたか。何分かあれば行けるんですけど、待てますかね?」

「待てますよ。予定ないんで、ゆっくりで大丈夫です」

「ありがとうございます。じゃあ今から向かいますね」

そう言って電話は切れた。

僕はベンチに座り、背もたれに寄りかかる。すると、心臓が大きく揺れていることに気づいた。相手の声が好みだったからだろう。正確に言うと、声が好みというよりも僕が好きだった子が発していた声に似ているという印象を受けたのだ。

彼女は、いま何処で何をしているのだろう。

「すみません」

目を瞑って思考を巡らせていた僕にかけられたのは、電話の声だ。

目を開けると、僕の視線が前に立っている女性の視線とぶつかった。

「……」

「あの、大丈夫ですか?」

「え? ああはい、大丈夫です」

僕は無意識のうちに固まっていた。女性の顔を見て、中学時代の同級生である田中結香ゆかのことを思い出したせいだ。電話の声からイメージしていたのはまさに田中結香のことで、女性は髪型がショートではあるものの他は田中に似ている。

そして、僕の中で言葉にはできても画としては曖昧になっていた田中結香の顔立ちが、以前よりもはっきりとした。

「スマホ、取りにきました」

「ああ、そうですよね」

僕はそう言って立ち上がり、女性にスマホを差し出した。

「ありがとうございます」

女性はスマホを受け取り、ショルダーバッグに仕舞う。それから、僕にこう問いかけた。

「時間あります? よかったらお茶しませんか?」

まさか、こんなことになるとは。どこかで期待していた自分はいたが、その期待通りになるとは驚きだ。

了承すれば、僕がつまらない人間だと気づかれるだろう。けれど、せっかく運命的な出会いを果たしたというのに、何もせずこのまま終わらせるのは勿体ない。

何より、田中結香に似ているこの女性ともっと話してみたい。

「……ありますよ」

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訪れた喫茶店は、パソコンに向かう若年男性や本を読む老年女性などが存在し、まばらに席が埋まっていた。

僕と女性は、自己紹介を終えたところだ。女性の名前は、イトウミキ、というらしい。

「佐々木さんは、どうしてあの公園に?」

「バイトが終わったから、休憩しようと思ってたんです。そしたらスマホを見つけて」

「そうだったんですね。あの公園を選んだのはどうして? とかいていいのかな?」

「全然大丈夫です」

僕はコーヒーを一口飲んでから、言葉を続ける。

「落ち着くんです。人がいない場所なのに、淋しさが紛れるっていうか」

「なんとなく分かります」

とりあえず相手に合わせたような返答だが、嘘ではないと思った。イトウさんの表情が、しみじみとしていたからだ。

「イトウさんは、家この辺ですか?」

「……いや、もっと都心です」

明らかに目を逸らされた。特別深い意味はなく訊いたのだが、まずい質問だったか。たとえ大まかであっても、自宅の場所を教えることに抵抗を感じているのかもしれない。

「本当は誰もいない場所で暮らしたいんですけど、それをできる力がないんですよね」

イトウさんは微笑みながら言ったが、凄く悲しそうに見えた。

「佐々木さんが住んでるのはどんな所ですか?」

「どんな……ただの住宅地です。そこら中に家が並んでるのに昼間でも誰も歩いてなくて、変なところです」

「その家、全部偽物なんじゃないですか?」

イトウさんは冗談で言ったのだと思うが、その言葉は僕の中にスッと入り、広がった。

「ほんと、そんな気がします」

そう言うと、沈黙が始まった。何を話そうかと考えながら、コーヒーを一口。

すると、イトウさんがこう言った。

「今度、家に行ってもいいですか?」

最初、誰の家のことを言っているのだろうと思った。しかし、どう考えても僕の家以外に思い当たる節がない。

「……それは、僕の家にってことですか?」

「はい。ダメですかね?」

僕は疑心を抱いた。イトウさんと打ち解けた感覚がないからだ。いつも通り僕は暗いし、相手を一度も笑わすことができなかった。ということは、僕を騙すつもりかもしれない。

「どうしてですか?」

「どうしてっていうのは?」

「どうして僕なんかの家に来たいんですか?」

僕の問いに、イトウさんは視線を落とした。

「気になるんです。佐々木さん少し変わってるみたいだから、どんな人なのかなって」

「……なるほど」

僕は受け入れることにした。結局のところ、騙されているわけではないと思える理由が欲しかっただけで、イトウさんを家に招きたかったのだ。

「いいですよ、ぜひ来てください」

「ありがとうございます」

そう言って僕に視線を送ってきたイトウさんは、微笑んだ。その笑顔を見た僕は、田中結香に一目惚れしたときのことを思い出した。

シャーペン

「これ使う?」

そう言ってシャーペンを差し出してきたのは、隣の席に座っている田中結香。シャーペンはもやがかかったようにぼやけていて、よく見えない。

「いいの?」

尋ねると、田中は眩しい笑顔で「うん」と頷いた。

「ありがと」

僕は田中からシャーペンを受け取る。しかし、直後にシャーペンは僕の手から忽然こつぜんと消えてしまった。

 

僕は目を覚ました。どうやら夢をみていたようだ。

しかも、ただの夢ではない。あれは実際にあった出来事だ。中学三年生のとき、僕は田中結香からシャーペンを借りた。

そして、そのシャーペンはこの家にある。借りっぱなしのまま返していないのだ。シャーペンを気に入った僕に、田中は「卒業のときに返してくれればいい」と言ってくれた。その言葉に甘えた僕はシャーペンを使い続け、返さないまま卒業してしまった。それは故意ではないが、悪いのは僕だ。返そうと思えばすぐにでも返せたのだから。

僕はベッドから勢いよく起き上がり、自室を飛び出した。階段を下りて一階の和室に入り、押し入れから段ボール箱を引き出す。学校関連の物が入れてある箱なので、田中のシャーペンがあるとしたらこの中だ。僕は教科書やらノートやら色鉛筆やらを次々と取り出し、箱の中身を減らしていった。一つ、また一つと。

そして、中学時代に使っていたペンケースを見つけた。そのペンケースのファスナーを、僕は慎重に開ける。

そこには、田中結香のシャーペン。その水色のシャーペンは、僕を待っていたかのように、ペンでつくられた山の頂上で横たわっている。

僕はこれまでにも何度かシャーペンのことを思い出したことがある。その度に返さなければと思ってはいたが、行動に起こすことはなかった。起こせなかった。

今回こそは、返そう。そう決めた僕は、まずは田中と連絡を取ることにした。

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小説「恐怖短編集」試し読み

迷子

小学四年生のとき、僕はある症状に悩まされるようになりました。あれから五年、中学三年になった今も症状は治まらず、それどころか悪化しています。

あの日は雨が降っていました。声を張らないと会話ができないくらいの大雨でした。当時仲良くしていた友人二人は家が僕とは反対方向だったので、授業を終えた僕はその日も一人で小学校から自宅へ向かい歩き始めました。

僕は雨の中を歩くのが好きでした。聴覚を支配する雨音、雨が傘に衝突した際の振動、雨に濡れた町の匂い、それらが合わさることで生まれる非現実感が好きでした。僕はその雰囲気を満喫しながら、立ち止まることなく歩みを進めていました。

しかし、不意に足を止めました。まず初めに何かがおかしいと感じ、それから目の前の景色が身に覚えのないものだと気づき、周りを見渡しました。

そこに広がっているのは、一般的な住宅街でした。ですが、その家々を僕は知りませんでした。いつも目にしているのがどういうものか説明しろ、と言われてもできないのだけれど、それらと違うことはハッキリ分かりました。

非現実感に意識を向けながら歩いていたので、どこかで別方向に進んでしまったのだろう。そう考えた僕は、引き返そうとしました。でも、できませんでした。後ろには三本の道があり、どの方向から歩いてきたのか分からなかったのです。

そんなときでした。

「どうかしたの?」

背後から声が聞こえてきました。振り返ると、白いワンピースを着た女性が、白い傘を手に立っていました。細身で長身の女性が発する声は弱々しいものでしたが、大雨の中でも問題なく聞き取れました。空気を伝っているのではなく、僕の頭に直接話しているような感覚でした。

「道に迷っちゃいました!」

「ああ、それは大変」

それから女性は、「ウチに来な」と言いました。そこで自宅までの道のりを確認すればいいと。僕は女性の言う通りにしようと決めました。警戒心はありませんでした。むしろ女性に出会ったことで安心感を抱けました。

女性の家までは、一分もかからなかったと思います。塀に囲まれた平屋で、塀と家の間には広い庭がありました。しかしそこは雑草が生えているだけで、淋しくうつりました。

「お邪魔します」

家の中に入った僕は、そこで初めて女性の顔をハッキリと目にしました。少し垂れ気味の大きな目、筋の通ったワシ鼻、小さな口、うっすらとしか見えない眉。五年前に一度見ただけの顔を、今でも鮮明に憶えています。

「風邪ひいちゃうから、乾かしてあげる」

リビングに案内された僕は、大雨と風のせいで湿っていた服や髪を、ドライヤーを使って女性に乾かしてもらいました。

「いくつ?」

「十歳です」

「学校は楽しい?」

「はい」

「勉強は?」

「楽しいです」

乾かしている間、女性はいくつも質問をしてきました。会話が膨らむことはなく、一方的に質問され、一方的に答えました。相変わらず女性の声は弱々しく、頭の中で響いていました。その響きのせいで僕の意識はあやふやになり、半分眠っているようでした。

「ご飯食べていって」

乾かし終わると、女性は言いました。お腹はすいてなかったし、早く帰り道を確認したかった僕は、食べる気になれませんでした。でも、断れませんでした。それは僕が断れない性格だからか? 違います。絶対に違います。仮に僕が断れる性格だったとしても、彼女の誘いは断れなかったに違いありません。なぜなら僕は、僕の意思で肯いたのではなく、彼女に肯かされたからです。

料理を待っている間は、女性から渡された画集を見ていました。それは彼女が描いたものらしく、東洋風の絵もあれば西洋風の絵もありました。しかし描かれているものは、どれも同じように見えました。人間が形を変えたようなデザインで、髪の毛がない一方で眉は剛毛、目は猫のように大きく、顔の半分ほどを口が占めている。そんな化け物が、どのページにも描かれていました。

「できたよ」

女性が出してきた料理は、ステーキとスープでした。中皿にのっているのは肉ただ一つで、カップに入っているのは赤みがかった液体だけでした。

味の方は格別でした。いや、格別という言葉では足りません。その肉と液体を喉に通すと、肉体が喜んでいるのを感じました。ずっと欲していたもののような気がしました。

「味はどう?」

「おいしいです。こんなにおいしい料理、食べたことありません」

「よかった。じゃあ私もいただこうかな」

女性がそう言ったとき、僕は下を向いてステーキにかじりつこうとしました。しかし、バキッという太い枝を折ったような音が耳に刺さり、食べずに顔を上げました。

女性の口が、顔を覆い隠すように大きく開いていました。そこには歯がなく、代わりにブヨブヨとした球体が、小刻みにうごめいていました。

僕は叫びましたが、声は出ませんでした。足を震わせながら這いつくばるようにして部屋を出て、玄関へ向かいました。そして玄関に辿り着いたとき、初めて振り返りました。

女性はテーブルの前に座ったままでした。しかし、僕の中に生じたのは安堵ではなく衝撃でした。その姿が、画集に描かれていた化け物そのものだったからです。

「あぁ……あぁ……」

僕は抱え切れない恐怖を吐き出すように声を漏らしながら、靴も履かずに家を出ました。外はまだ大雨で、その雑踏の中を、おぼつかない足で歩き続けました。自宅の方向は分かりませんでしたが、とにかく化け物から離れることだけを考えていました。

そしてようやく足の震えがおさまってきた頃、立ち止まりました。自宅のすぐそばにある、公園が目に入ったからです。いつの間にか雨はやんでいて、僕はそのまま歩いて自宅に向かい、無事帰宅することができました。

しかし僕はあの日から、人間の肉を食べたい、という衝動に悩まされています。

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